Art Archive • Threads of Japan

浮世絵

Threads of Japan(文化論考)

スクリーン以前のスクリーン — 浮世絵はいかにして世界を切り取ったか

260年の平和が生んだ都市文化のなかで、浮世絵は壁の絵から一枚の紙へ——フレーミングを中心課題とする「スクリーン」の先駆けとなった。四人の絵師を通して読み解く。

Threads of Japan — 文化を横断するエッセイ

一、絵を生んだ平和

1603年、徳川家康が江戸に幕府を開いてから、1867年に最後の将軍が大政を奉還するまで、日本はほぼ対外戦争を経験しなかった。260年余りという歳月は、一つの社会がじっとしているには長すぎる時間である。戦争に向けられるはずのエネルギーが行き場を失ったとき、それは別の場所へ向かう。江戸の場合、その行き先は都市そのものだった。芝居小屋、遊里、版元、旅、噂話、流行。「浮世の絵」たる浮世絵は、この振り向けられたエネルギーが残した、最も分かりやすい化石の一つである。

しかし、平和というだけでは、この絵は説明しきれない。徳川の平和の下には、すでにもう一つの絵画の伝統があった――幕府や大名に仕える御用絵師、狩野派である。狩野派は浮世絵の登場によって消えたわけではなく、まったく異なる観客に向けて、両者は並び立っていた。浮世絵が真に新しかった点を理解するには、まず何が置き換えられたのかを見ておく必要がある。それは題材の違いではなく、「絵はどう見られるように作られていたか」という、より深いレベルの文法の違いである。

二、壁からスクリーンへ

狩野派の絵は壁の上で生きていた。その代表作は襖絵や障壁画であり、城や寺院のために誂えられ、その部屋そのものと切り離せない存在だった。二条城に残る狩野探幽の松の絵は、所有したり持ち歩いたりできるものではない。それは、しかるべき身分を持つ訪問者が邸宅の奥へと少しずつ通されていく過程で、部屋から部屋へと通り過ぎながら出会うものだった。この構図は、時間と身分を持った、ごく少数の鑑賞者を前提としている。大きく取られた余白、様式化された雲、一枚の襖からもう一枚へと意図的に解決されないまま続く輪郭――これらはすべて、午後をかけてゆっくり読み解かれるべき絵だからこそ成立するものだった。

浮世絵は、この前提を根本から覆した。一枚の版画は、それ自体で完結した紙の矩形であり、建物から切り離すことができ、懐に入るほど安価で、衝動買いされ、家に持ち帰られる。それは一度の視線ですべてを語らなければならなかった。なぜならその観客は、将軍の家臣として廊下を案内される人間ではなく、絵草紙屋の店先に立つ、わずかな銭を持った町人だったからである。ここで正確に名指しておくべき転換がある。浮世絵は、「矩形の中に何を入れ、何を切り捨てるか」という決定行為――フレーミング――そのものを、絵が解くべき中心課題として自覚的に導入したのである。壁から一枚の紙へ、道行きから一瞬へという、この構図の単位そのものの転換こそが、浮世絵を西洋的な意味でも狩野派的な意味でもない「絵画」というより、初期のスクリーン――すなわち、世界から切り取られた構図であり、住まうための絵ではなく、複製され、持ち運ばれるための絵――と呼ぶことを可能にしている。

三、四人の絵師、スクリーンの四つの機能

浮世絵をスクリーン――世界から切り取られた構図――という技術として捉えるなら、その代表的な四人の絵師は、それぞれスクリーンにできることの異なる実演として読み直すことができる。各人が、ある造形上の手法と、それが可能にした社会的な機能とを一組にして体現している。

写楽——圧縮。 歌舞伎は一夜限りの生の興行だった。写楽の大首絵は、全身像を切り捨て、顔だけを画面いっぱいに拡大した。一夜の演技だったものが、固定され、持ち運び可能な一つの表情へと変わる。これは文字通りの圧縮である――一夜の芝居を、袖に収まるほど小さな一枚の画面へと縮約する。この手法が、現代人の目にはクローズアップショットや、プロフィールのサムネイル、アイコンといった、「顔一つがすべてを伝えうる」という同じ賭けに立脚した画像形式の祖型に見えるのは、偶然ではない。

歌麿——無名の主題化。 狩野派が描く人物は、ほぼ例外なく身分ある者――将軍、武将、故事・宗教説話の英雄――だった。歌麿の最大の主題はその対極、すなわち遊女である。当時の身分制度の下では公には名を持たない存在を、写楽が名のある役者に用いたのと同じ大首絵の様式にまで押し上げた。この構図そのものが、「身分を持たない、ありふれた個人にも一枚の紙を割く価値がある、じっくり見つめる価値がある、絵全体の主題たりうる」と主張している。誰もが――権力者だけでなく――画面の中心になれるというこの主張は、無名の一個人が有名人と同じだけ画面を占めることのできる、現代のユーザー生成コンテンツにおける主張とまったく同じものである。

広重——疑似体験の商品化。 徳川の体制は、東海道をはじめとする驚くべき街道網を整備したが、それは主に参勤交代のために大名を江戸との間で往復させるためのものであり、庶民の物見遊山のための旅を可能にするためではなかった――実際、庶民の移動の自由はむしろ制限されていた。広重の名所絵シリーズが売っているのは、そのインフラが可視化しながらも実際には手の届かないものにしていたもの――旅そのもの――を、都を離れることなく所有できる、フレームに切り取られた一連の光景として商品化したものである。版画は旅そのものを代替する。「大はしあたけの夕立」のような一枚が、その典型だ。これは、旅行地のコンテンツ、検索結果、あるいはAIによる場所の要約が、実際に行かなくてもその場所を「知る」ことを可能にしている、現代でもごく馴染み深い取引の、かなり古い版だと言える。

北斎——網羅性と、主題化されたフレーム。「冨嶽三十六景」は当初36点として始まり、人気を受けて46点にまで拡張された。このシリーズは単なる風景画の集合ではない。単一の固定された主題が、無限に再構図されうること、そしてバリエーションそのものが商業的に成立する網羅性の一形態であることを示す実演である。そして最も有名な一枚「神奈川沖浪裏」では、波が画面を支配し、シリーズの名目上の主題であるはずの富士は遠景に小さく押しやられている。この構図は、フレーミングという行為そのものを一つのコンテンツとして可視化している――この絵は、何を大きく見せ、何を背景に追いやるかという決定そのものを、主題の一部として提示しているのである。

四、この重ね合わせが消し去ってはならないもの

ここまでの話は、きれいな結論に飛びつきたくなる。江戸の版元・絵師・彫師・摺師が担っていた、絵を複製し、運び、多くの手に届けるという仕組みと、今日のアルゴリズムが画像をスマートフォンの画面に届ける仕組み――この二つを同じ構造として重ね合わせ、「江戸の版画文化は、今日のスクリーンの初期草稿だった」と言い切ってしまいたくなる。だが、この重ね合わせの中には、現代には存在しない二つの制約が抜け落ちている。それを名指さないまま話を終えるのは、正直ではない。

一つ目は、検閲である。1790年代、老中・松平定信が主導した寛政の改革は、贅沢な題材を取り締まり、出版統制を強めた。この一線を越えた絵師や版元は、現実に罰を受けた。二つ目は、資本である。一枚の版画は、版元が絵師・彫師・摺師に金を払い、版木を彫らせて初めて生まれる。売れなければ、その損失を負うのは版元自身だった。

つまり、浮世絵が広げたのは「誰が絵に描かれるか」であって、「誰が絵を作り、世に出せるか」ではない。後者は、今も昔も、資本を持ち、検閲の内側にとどまれる者だけの領分だった。民主化は本物だが、半分の民主化である。この限界を認めることが、相似形を安売りしないための最低条件だと思う。

五、動き続けたフレーム

もう一度、スクリーン――すなわち、世界から切り取られた構図――という言葉に戻りたい。浮世絵が発明したのは、「世界を矩形に切り取り、それを複製し、持ち運び、より多くの手に届ける」という一つの操作だった。この操作は、版木で終わらなかった。写真になり、映画になり、テレビになり、今はスマートフォンの画面に収まっている。何を矩形の中に入れ、何を外に残すか――その決定は、一日に何十億回も、形を変えて繰り返されている。

江戸の版元は、後の世の職人が何を彫ることになるかなど知る由もなかった。写楽は、自分の版木の先に何が続くかなど考えもしなかった。それでも、絵師が下絵を描き、彫師が版木を彫り、摺師が紙に摺り重ねるという、あの一連の仕事場から続く一本の線がある。矩形を定め、そこに何を彫り込み、何を余白として残すか――その判断を重ね、版を重ね、摺りを重ねていく仕事は、道具と素材を変えながら、今も形を変えて続いている。写楽、歌麿、広重、北斎。四人をばらばらに見ていては、この線は見えない。四人を並べて初めて、この相似形がくっきりと浮かび上がる。